韓統連の歴史

3.光州「血の教訓」-反米自主化運動

79年10月26日。内外で頂点に達した反独裁民主化運動によって、朴正熙大統領は側近中の側近であるKCIA部長によって射殺されました。朴正熙維新独裁政権は悲惨な末路を迎えたのです。

民主化に向けて新時代の到来が予感されましたが、陸軍少将だった全斗煥一派が軍事クーデターで権力を掌握。これに抵抗した光州民衆抗争に対しては、精鋭部隊を投入し銃剣で虐殺する大弾圧を加えました。そして金大中氏を抹殺するため、金氏を光州民衆抗争の「背後操縦者」にでっち上げ、内乱陰謀罪で拘束し、「韓民統の議長」を口実に軍事裁判で死刑判決を下しました。

これに対し韓民統は、全斗煥政権の蛮行を明らかにし、2度目となる金大中氏救出運動に全力で取り組みました。記録映画「韓国1980年-血の抗争の記録」の上映運動を通じ、光州民衆抗争の真実を伝え、全斗煥政権を批判する国際世論を喚起するとともに、金氏救出のための国連提出署名運動や断食闘争、集会とデモ、連日連夜の戸別訪問や街頭情宣を行いました。この結果、死刑判決は減刑され、再び金氏の命を救いました。

さらに、81年の5月には3日間にわたって「韓国民主化支援緊急世界大会」を東京で開催しました。光州抗争1周年を機に開催されたこの世界大会には、世界27カ国、3国際機関から述べ1600人が参加して会議、音楽会、絵画展、大衆集会などを開催し、日本社会にとどまらず、国際的にも光州問題への関心を大いに高めました。世界大会は82年、83年にも開催されました。そして、国内で金泳三氏が全独裁政権に抗議しハンストを決行するや、韓民統もこれに呼応して連帯ハンストを敢行するなど、国内民主勢力と連帯し全斗煥政権を打倒する運動を海外で推進しました。

韓民統は光州民衆抗争を通じ、米国の支配と干渉をはね退けない限り、真の民主化も統一もありえないという「血の教訓」を胸に、83年に反外勢民族自主を基本路線とする「第2宣言」を採択しました。これは、後の韓国民族民主運動の理念となる「自主・民主・統一」をいち早く取り入れたものでした。

また80年代初頭、米国のレーガン政権は全政権を容認し、日本を巻き込んで韓米日軍事同盟化を推進しました。対北侵略戦争を前提にした韓米合同軍事演習「チーム・スピリット」も一層強化され、朝鮮半島で再び戦争の暗雲が垂れ込めました。

韓民統は戦争を阻止するために、「チーム・スピリット」反対運動に加え、韓米日軍事同盟の強化を目論む全斗煥訪日に対して、日本全国で抗議集会や断食闘争を行うなど、激しい反対運動を行いました。同時に、在日同胞の指紋押捺制度の廃止を求め、日本の法務省宛の抗議はがき運動やテント闘争なども精力的に展開しました。

86年に入り、韓国では独裁政権打倒に向けて大統領直選制をはじめとした改憲運動が学生や市民、政界で高まりを見せる中、韓民統もこれに連帯して、日本各地で大規模集会とデモ、広報活動を粘り強く展開しました。日本当局による不当逮捕などの政治弾圧にも屈せず最後まで闘い抜き、87年の6月民主抗争勝利に貢献しました。