韓統連の歴史

1.韓民統結成前夜-在日同胞の権益擁護と民団の民主化を求めて-

1946年に在日本朝鮮居留民団として結成された在日本大韓民国民団(民団)は、1960年の4月革命を受け、同年5月に「第3宣言」を発表。在日同胞の権益を守ることを最優先し、本国政府の政策に対しては是々非々で望むという「民団組織の自主化」を明らかにしました。ところが、61年5月の軍事クーデターによって朴正煕軍事独裁政権が登場すると、朴政権は民団に対する不当な干渉を始めました。こうして、民団の自主性を守るために民団民主化闘争が始まったのです。

「民団正常化有志懇談会」をはじめとする民団民主化勢力は60年代、在日同胞の不安定な法的地位や民族教育を守るために果敢に闘いました。

韓日条約における法的地位協定の問題点を鋭く批判し、法的地位要求貫徹運動を大々的に展開した他、68年には民族教育の抹殺をもくろむ「外国人学校法案」を、69年には在日同胞の政治活動を規制し、強制退去による追放政策を強化する「出入国管理法案」を、決死の闘いによって廃案に追い込みました。

在日同胞の権益擁護運動などを通じ、民団内の支持を集めた民団民主化グループに危機感を覚えた朴正煕軍事独裁政権は、KCIA(韓国中央情報部、現国家情報院)、韓国大使館、民団中央を通じて様々な妨害と圧力を加えました。

特に71年3月の民団中央団長選挙では、韓国大使館の金在権公使が選挙直前に「某候補を団長に推している人々の中に、反国家的発言をした人物がおり、その発言を録音している」とした「録音事件」を引き起こし、露骨な選挙干渉をしました。金公使による同様の発言はその後も続き、暴力輩が配置された恐怖的な雰囲気の中で行われた団長選挙では、朴政権の意をくむ候補が再選されました。金公使が選挙後に公表するとしていた録音テープは、ついにどこからも出てくることはありませんでした。この他にも、民団東京・神奈川本部事務所への襲撃など、数えきれないほどの弾圧が続きました。

そして72年に7・4南北共同声明が発表されると、民団民主化勢力は「民族統一協議会(民統協)」を結成するとともに、総連と共同声明を支持する共同行事を日本各地で開催し、先駆的に統一運動を行いました。このような動きに一層危機感を深めた民団中央は、民団民主化勢力に除名・停権処分を乱発。在日韓国青年同盟には傘下団体取り消し処分を強行しました。こうして、民団内の民団民主化勢力と朴政権支持派の対立は決定的になりました。