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ジェノサイドあるいはディアスポラ、そして在日チョソンサラムたち

民プラス 2021/12/08 キム・グァンス政治学博士

映画「私はチョソンサラムです」試写会に行き

 私は文化芸術に関する理解はとんと疎い。にも関わらず意味のある映画や演劇などは必ず観覧しようとする。なぜなら文章で得られないインスピレーションのようなものを、常に私に与えてくれるからだ。

 12月9日から上映される「私はチョソンサラムです」という映画を、共同体映画上映形式で6日に観覧した。チケットは知人の助けを借りて購入し、上映館に到着すると100人ほどの客がいた。知っている人もいたので短い挨拶を交わし、静かに映画を見始めた。

 結論として私はこの映画を見ている間、終始彼ら…在日チョソンサラムに「申し訳なさ」と私自身に向かう「居心地の悪さ」を感じていた。「申し訳なさ」とは、私自身、自主統一運動ひとすじで実践活動を熱心にやってきたと自負してきたが、彼ら…在日チョソンサラムの差別的な生活と統一に対する熱望を観念的に理解していたと私自身が認識していたことに気付いたためだ。彼らにとって統一とはスローガンでも「抵抗」でもない、人生と運

命そのものだったということだ。

 「居心地の悪さ」とは、そのような彼らの人生を、知っていながらも目をつむろうとした私の「黒い羊効果」* のためだった。知っていれば同意しなければならず、同意すれば行動しなければならないため、むしろ「目をつむる」ことで正当化した卑怯な自分自身を見つけてしまったからだ。

*黒い羊効果…自分の属する集団に対する優越評価と、集団の中の異端者を自分の属さない他の集団よりも低く評価し排除しようとする心理。

 上映を通じて広く知られるであろう、在日チョソンサラムたちの言葉にできない差別について分かち合い、共にできる方法が過去の「キャンドル」ではなく現在の「野火」として立ち上がれば、という小さな願いを込めて観覧を終えた。

映画に対する所感

 映画は90余分にわたって日本社会での在日チョソンサラムの差別的な体験・境遇を扱う。だが、その先に祖国統一へ向けられた格別の願望と祖国愛が込められた「栄光の」人生があり、それを越えた「幸福」がある。

 個人的な人生なら決してそうしなかっただろう。個人と社会、国家と民族、分断と統一、そういったもので覆われた社会的ネットワークの中で、自分たちの人生を「今日の個人」ではなく「明日の集団」として見てきた。そして集団の中で自分たちの幸福と理想、志向性を見つけて来たからこそ、かれらは過酷な差別と嫌悪、祖国の裏切りにさえ耐えてきたのだろう。分断と国家保安法、統一すらもかれらにはそのように近づいてきた。

 ここまでが彼ら​​の人生に対する共感であれば、次は大韓民国に向けた「怒り」である。

 次のセリフにすべてが込められている。38度線以南の大韓民国が故郷の主人公、在日同胞金昌五先生は作中で「私が祖国(大韓民国)を愛すれば愛するほど、(国家保安法のため)祖国が離れていく」と語った。

 何が彼らをそうさせたのか?治安維持法と国家保安法は一卵性双生児だ。祖国留学を通じて「忘れていた」自分のアイデンティティを見つけようとしたが、むしろ大韓民国という祖国は「留学生スパイ捏造事件」を通じて自分たちを部外者に仕立て上げ、生きる権利さえ徹底的に奪った。ある判事の判決文だ。「大韓民国は反共を国是とする国家だ。したがって、被告康宗憲のような朝鮮のスパイは生存を許すことができない。 (康宗憲先生の回顧の中で)

 結果、そのように捨てられた彼らの人生は、「チョウセンジン」と馬鹿にした日本に差別を正当化する言質を作り出した。いかに残酷なことを大韓民国はしてきたのか。

 私は以下のように結論づける。在外同胞及び在日チョソンサラムたちの差別の責任は、日本を責める前に祖国の息子・娘たちを受け入れられなかった歴代大韓民国すべての政府にある。これからはその過ちを百回でも繰り返し認めて反省し、彼らが堂々と民族的生活を営むため、大韓民国政府は数百倍の努力を惜しまず、問題解決のために日本との直談判に訴えなければならない。

 そこまでしなければいけない十分な根拠と責務もある。「南と北は国際舞台で民族の利益と海外同胞の権利・利益のための協力を強化していくことにした」(10・4 南北共同宣言第8項)それにも関わらずもたもたと時間ばかり無駄にしている大韓民国政府に向けては、市民社会が団結し、国民的な同意と大衆的な怒りを基に批判・牽引し、すでに政治争点化している「チョソンサラム差別問題」を全朝鮮民族の力量で突破する知恵を導き出さねばならない。

 10・4南北共同宣言合意文を復活させることがその近道である。南北合意文履行闘争(国会批准闘争を含む)を組織化して政府を最大限圧迫し、国会批准できるようしなければならない。この映画はまさにその呼び水だ。過去のジェノサイド(虐殺)とディアスポラ(離民)、それらの真ん中に存在する今日の日本ジェノサイドを克服する道だ。

 必ず見なければならない理由がある。